昭和48年7月29日 特別奉修委員
奉修委員の方たちに対する神様のお答えというのは、ちょうどあの、高い、あの長い竹ざおに、先にあの放棄草、昔あのほうきのね、あの放棄草であれをこうつけちから、蛍を取りにいく時に、昔私だんはあんな使いよったね。あれを頂く。蛍ということは、霊光、いうなら霊徳とおっしゃるから、あのー霊徳をくださろうとする働きがあるですね。ですからこの、どうしても霊徳だけではできませんから、神徳を受けていかなきゃならんですから、そのためにね、あの先ほど、んー秋山さんが頂いておられますように、お互いの信心がどういうところにあるかというと、なら一生懸命こうやって、ポンプをつけば水がでてくるというところが、合楽の皆さんの信心じゃないだろうかと思うですね。一生懸命つきやむると水がでらんというね、一生懸命お参りもする、一生懸命修行もさせて頂いて、まあ受けておるというのが、ね、だから本当にこれからご神徳ということになってくると、もう蛇口をちょっとひねっときゃあお水がなんぼでも出るといったようなね、おかげを頂かしてもらわなきゃならない。今のみなさんの場合なんか、信心の油断をちょっとしたら、もうおかげは止まるといったような感じのところが、じゃなかろうかと思うね。なら例えば、原さんが頂いておられ、おられるのも、やっぱ、そういうのもみんなやっぱ一つの霊徳ですよね。あの、しょう、あの、炊事場のすーみの方に、あの水道の蛇口がある、これを中央真中に出したら使えるようになるだろうというところを頂いたと。ですから、もうその大きな受け物がでけたっちゃ、すみの方じゃけん受けられないという感じですね。だから真中にだしゃ、どんな大きな器をあの大きなもってったっちゃ、ジャージャー出てくるしね、使いようもあるし、お互いの信心の中心というものが、今朝あたりの御理解のところにおかれ、昨日あたりの御理解のところを把握しての、そしていよいよ信心になっていかなきゃならない。そこにあの、神徳を受けていく信心があり、同時にまた、もう神徳を本当に神徳たらしめるために、やはり霊徳も受けなきゃなりませんが、こうやって人のためにというか、教会のためにというか、親先生の健康のためにと祈るといったようなことやらは、それが本当に真心こめてと、い、もう追求されたら、まあ育つなもんだろうと思いますよね、めいめいのところが。けれども、やはりそういう例えばあの、親先生のためにでも、みんなでこう祈らせてもらえる、もらおうというような、そういう雰囲気が、あの信心のけいこをさせて頂くものの姿勢であって、そういうところに、この神様は霊徳をくださるような感じがいたしますですね。霊徳、いわゆる神徳を頂いておかげを頂いていかなきゃならん。どうでも一つ、ね、ひねっときゃ水がジャージャーでるようなね、おかげを頂いきたいもんですね。そんためには信心の、いわゆる肝心要の握りどころという昨日の御理解では把握見せ所というものがね、中心にこう置かれなきゃいけない。
鹿児島に、原さんの弟さんがおられますのが、もう大変熱心に鹿児島で信心しておられて、今度兄さんの告別式に出られなかったことが非常に残念で、あちらのもようを聞かしてくれという、どんな風じゃったかというて尋ねてからそれに対する返事をね、いろいろ書かれた後に、もうとにかく私はただ若いものから拝まれるおばあちゃんにならんならんということに精進させて頂いてるということを帰ったら途端に感動したということ。それは、原節子の感動ではない、神様の感動だと思うですよね。もう本当に周囲の者から拝まれる私達にならせてもらう。ためには周囲の者の全てが、全ての人が拝まれるこっちがほうが拝めれる信心にならなければ拝まれはしませんね。まずは、なら今日の御理解にある、あれもおかげと分かるということは、もう一切を拝むということなんですよ。ですから、まず自分の周囲のものが拝まれずして、自分が拝まれるといったようなことのあろうはずがない。ね、拝んだことの味わいのわかるもんじゃなからなければ、また拝まれる味わいは頂かれんということになるのですね、自分が拝まれるごとなろうというだけの精進では、拝むし、拝む相手を一切を拝めれる精進こそが有り難いということになるですね。
池尻てるか